<< 噛み後、どこに残したい? | main | 運命かもしれないと、調子に乗って 上編 >>

スポンサーサイト

  • 2014.11.04 Tuesday
  • -
  • -
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

一定期間更新がないため広告を表示しています


安心な僕らは旅に出ようぜ

暇なので、自部屋に閉じこもって音楽ばかり聴いてる。
感想をだらだらと書いてたら、またもや長文になってしまいました。

・くるりのトリビュート盤「くるり鶏びゅ〜と」を聴いた

聴いてビックリしたのは、ここに収められているほとんどの楽曲がくるりの曲に聴こえなかった事だ。やはりくるりは岸田繁の声なしには成立し得ないということを、暗に証明している結果になってて興味深い。

例えば、スピッツや岡村ちゃんやフィッシュマンズのトリビュートを聴くと、他のアーチストが楽曲を自分流に落とし込んでても、どうしてもメロ ディーから草野マサムネや佐藤伸治のものである事が匂い立ってしまう。岡村ちゃんに至っては楽曲のとてつもないパワーに各アーチストが振り回されてる始 末…
それは、彼らの作るメロディーが強烈に作家性を保持しているからだろう。
それに比して、くるりのこの匿名性の高い楽曲群はなんだろう?ユーミンや矢野顕子のカバーなんて、仮に彼女らのアルバムに紛れ込んでも全く違和感がない。

くるりは一時期、器用貧乏なバンドに堕しそうになった事がある。くるりの持っている音楽スタイルがその雑食性故に、見えづらくなっていたのだ。

90年代〜ゼロ年代中盤に至るまで、ロックバンドは次々と台頭してきた様々なスタイルの音楽に対抗するため、そのスタイルを吸収していく手法を取っていて、それが、ある意味時代のトレンドでもあった。
くるりもご多分にもれず、わりとキャリアの早い段階から、ポストロックなどの音響派の方法論を作品に取り入れて、アルバム「図鑑」を制作した。それ以降、くるりは多様なサウンドを自身の音楽に取り入れていった。
そういった、くるりのギターロックとその他のジャンルの刷り合わせは、アルバムを出していく毎にどんどんその比重を増していく。
その他ジャンルとの融合路線は、四つ打ちハウスと歌ものポップスを見事に融合させ、一大ダンスチューンに昇華させたシングル、「ワールズエンド  スーパーノヴァ」と、様々な音楽スタイルを楽曲ごとに並べて、トータルアルバムとしてまとめきった「THE WORLD IS MINE」が一つの到達点となる。
しかし、このアルバムで見られるのは、ロックバンド・くるりではなく、フロントマン・岸田繁の圧倒的な才能でしかなかった。

その直後からくるりはバンドメンバーの加入脱退が激しくなった。それは決して偶然ではなく、ロックバンド・くるりが必然的に抱えていた、一つの命題が顕在化したものだった。それは、ロックバンド・くるりと、怪物的フロントマン岸田繁の終わらない格闘である。

岸田繁は、ポップメイカーとして稀有な才能を持ったミュージシャンだ。様々な音楽スタイルを取り入れながらも、それを平均点以上の楽曲に仕上げて しまうのである。彼のルーツとなるフォークロックを始め、音響、エレクトロニカ、テクノ、ファンク、ヒップホップ。手当たり次第に何でも飲み込んでも破綻 させる事なく、一つの楽曲に落とし込む事が出来る。
(そういった岸田繁の異能ぶりが端的に出ているのは、「ジョゼと虎と魚たち」と「リアリズムの宿」のサントラであろう。サントラとして真っ当すぎて岸田繁が何者か分からなくなる、すごい盤)

しかし、その様なジャンルをあっちこっちと行き来してると、どうしてもジャンルの往来に付いていけないメンバーの存在が危うくなってしまうのだ。 くるりのバンドメンバーが、岸田の旧友であり、一番の理解者である佐藤征史を除けば、脱退を繰り返している事。これは岸田繁の圧倒的才能に対して、バンド メンバーが彼のやり方に付いていけないくなり、反発を繰り返しているからなのではないか?
その先に待つのは、様々なスタイルを飲み込んで飲み込んだ末に破裂して潰れてしまった、ナンバガやスーパーカーの影が重なる。

それに気付いたくるりは、その撤を踏まぬよう、慎重に岸田繁の圧倒的才能と対峙してきた。くるりは、自分達の足場を確かめるかの様に、数作おきに ロック寄りのアルバムを制作する。それは、様々なジャンルを実験的に取り入れながらも、自分達はあくまで、ロックバンド「くるり」である事を、声高に主張 しているようにボクには聞こえるのだ。

フロントマン岸田の圧倒的才能。その才能と格闘する事によって、バンド、「くるり」はそのアイデンティティを獲得しようとしてきたのだ。


翻って、「くるり鶏びゅ〜と」である。前述した様に、くるりのトリビュート盤っぽく聞こえない。どこか他人の曲に聞こえる。岸田繁の楽曲の持つ普 遍性故に、その様な現象が起きているのだと、僕は思う。様々なジャンルを横断している岸田の才能からすれば、それは自明の理であり、特に岸田の楽曲は様々 なジャンルに溶け込みやすい。
そして、そこから逆説的に、くるりのアイデンティティは浮かび上がってくるのだ。

それは、くるりのアイデンティティは、岸田繁の歌声によって支えられている、という事だ。くるりの楽曲を聴くと、つい変幻自在なサウンドに目を奪 われがちだが、その実、その核には岸田の歌があったのだ。サウンドがどんなに変化しても、中心に据えられているのは、岸田の歌なのである。これが、くるり のアイデンティティであったのだ!

まあ、ロックバンドとしては当たり前の結論なんだけど、くるりにおいては、意外な事実と言おうか。岸田の歌によって、くるりらしさというものが支えられている事。「くるり鶏びゅ〜と」を聴いて、そんな見えづらくなっていた当たり前の事に気付かされたのだった。

さて、そんなくるりのアイデンティティが、図らずもトリビュートアルバムで顕現するのは、皮肉な結果なのだろうか、くるりにしてはしてやったりな結果なのだろうか、僕には良く分からない。


ま、そんな長々とした、屁理屈はともかく。
このトリビュート、相当いいっすよ!今、くるりを全く聴かなくなった元ファンこそ(僕もそうなんだけどね)聴いとくべき音源である。





・今更ながら、ラッパーのキリコを聴いた。こりゃ、話題になるわなあ。問題提起に満ちている。が、このフロウだと、全く言葉が耳に入ってこない。 自家中毒に陥っているよーな曲多い。そこがまたいいのかもしれないけど、だったら、耳障りの良さを追求しているTWIGYとかエムフロウの方がまだ好感持 てる。

しかし、なんか、こうゆう才能が出てきてもてはやされるのは、ヒップホップシーンの末期を感じさせる。
ヒップホップに、いや、正確に言えばヒップホップを取り巻く様々なシーンに対する、この怨念めいた執着は、一体何なんだろう?
同じネガティブさでも、ECDのヒップホップシーン(だけじゃなく、日本の社会そのもの)に対する違和感と異議申し立てや、MSCののっぴきなら ないアンダーグラウンド世界の活写とは異質であり、ヒップホップシーンへの歪んだ愛にまみれた呪詛の言葉に満ちているアルバム。実に息苦しい。

その閉塞感が、2chの自分のスレッドのディスに、丁寧にレスを付けていく大作「ありがとう。名無しの2チャンネラー諸君。」に顕著に現れてて、時代の空気にマッチはしてるのだろうけど、それだけじゃ、絶対ダメだ。ヒップホップをどんどんダメにする。
キングギドラと同じ様な閉塞感を感じるし、ブルーハーブの様な居心地の悪さが目立つ。ああ、まったく良くない事だ。こんなん、ユーモアでも何でもないよ。

あ、でも、イル・ボスティーノとシンゴ02を誉め殺してる曲はカッコ良かった。暗黙の了解みたく誰も触れない不可侵領域に、卑屈さ全開でアプローチしてるとこが



他にも、カーネーションや、川本真琴や、Limited Express (has gone?)なんかのアルバムも滅茶苦茶カッコよくて素晴らしかったけど、素晴らしすぎると、も、何も言うことないんだよなー。
今年はロックがいい年になりそうで本当にワクワクしている。ロックって、もはや刹那を生きるものではなく、転がり続けたもん勝ちな音楽になりつつあって、そこがオモチロイ。
時代の閉塞感を打ち破る、希望に溢れる作品をいっぱい、体に浴びたい。

スポンサーサイト

  • 2014.11.04 Tuesday
  • -
  • 13:08
  • -
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

コメント
コメントする









この記事のトラックバックURL
トラックバック
calendar
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 
<< June 2017 >>
sponsored links
ツイッター sumou_zanmai
selected entries
categories
archives
recent comment
recent trackback
links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM